2012年12月31日月曜日

カラフルなまいにち



この笑顔を見ていると、とてもしあわせな気持ちになります。
誰かが笑顔になったり喜んだりする、
それによって、自分もしあわせになれる…
いつも、そんな気持ちでいられたらと思います。

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娘、5歳のお誕生日。
ちょうど5年前、未婚のシングルマザーとして娘を生み、
育てようと決意した日の青空を、時折り思い出します。

“生まれてきても、それほど世界は素晴らしくないかもしれない。
片親の子として生まれてくるという運命も背負っている。
けれど、私は「生まれてこれてよかった」と思うから、
この子にもそう思ってもらえるようにしたいと思った。”

どんな人生であっても、
「生まれてきてよかったなあ」と思えるように。そう願うばかりです。

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幾“千”の “絵”を描くように、
いろんな人たち、いろんなものの、気持ちがわかる、
想像力豊かな人になりますように…という願いをこめて、
「千絵」と名付けました。

さらには、“絵”は、私の母の願いがこもっており、
“千”には私の母の母の願いもこもっています。

受け継がれていく、願い。
名前は、いとおしいもの。

名前を通じて、過去から現在、未来へと、つながるのです。

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最近、娘が母子手帳の中に挟んでいた
胎内写真を見つけて「これ、なに~?」。

「おかあさんのおなかにおってな、指しゃぶりしてたんやで」と話しながら、
なつかしく、不思議な気分に。

私も、私の父親も、あのおっちゃんも、あのおばちゃんも…
みんな、おなかの中におったんやもんな。

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「おかあさんと、ちえと、
ベビーちゃんと、ベビーちゃんと、ベビーちゃんと…」。

保育所のお友達のおかあさん
、6人ほどのおなかのなかに、赤ちゃんがいて。
娘はとっても興味しんしん。
おなかのなかの赤ちゃんを描いたそうです。

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今、娘が着ている服やかばんの中には、
あの子やこの子の“おさがり”があります。

“おさがり”をいただく時、
みんな、「私も、そうしてもらってきたから、
気にしないで」とおっしゃってくれました。

そうやって、脈々とつながっている、つながっていくもの。

娘が着ているこの服は●●ちゃんが着ていたもので。
●●ちゃんの前にも着ていた子がいて…。

いろんな思い出がつまって、
今ここにあるんだと思うと、とてもいとおしい。

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スイカをがぶっと。
隣のおばあちゃんからのおすそわけ。

阪神大震災をきっかけに、
現在のところに引っ越してきて、14年ほど。
高校生の頃からのお付き合い。
子どもの誕生をきっかけに、お隣のお孫さんと遊んだりと。

ご近所さんとのつながりが、いとおしいです。

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子どもと一緒に歩いていると、おばちゃんによく声をかけられる。

知っているおばちゃんはもちろん、
知らないおばちゃんにも。

最近、すごく、よくわかる、そのおばちゃんの気持ち!!
わたしも、特に0歳児を見かけると、
話しかけずにはいられない衝動に駆られます。

その子がかわいいのはもちろん、
その子を通して、娘の赤ちゃんの頃を思い出すのです。

時折り、「この子には赤ちゃん時代があったのだろうか」と
疑いたくなるくらい、5歳児のまま生まれてきたような貫禄がある娘ですが。

そうそう、そうそう、足で勢いよく蹴って、
喜びを表現してくれたよなあ~とか。
頬をぱちぱち、ぱちぱち、たたいてくれたよなあ~とか。

そんな日々を、目の前にいる赤ちゃんと重ね合わせて。
この子も、こんな感じなんかなあ~、
おかあさん、がんばれーと応援したくなるのです。

そうやって、そうやって、つながっていくのでしょうね。

写真は生まれたばかりの頃の、娘の写真。
今でも、寝顔・寝姿はこんな感じです。

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保育所の子どもたちを見ていると、
“ともに”という感覚を持っているのだと感じます。

たとえば、足の速い子がいて、
「すごいなー。自分も速く走れるようになりたいなあ」と。

水に潜れる子がいて、
「すごいなー。自分も潜れるようになりたいなあ」と。

純粋に、尊敬できる、憧れられる。
そこには、妬みはありません。

その子の素晴らしさを評価し、自分もそうなれたらいいなあと思う。
できなくても、何度も何度もチャレンジ。
自分もいつかは「できる」という自信に溢れている。

“ともに生きている。ともに頑張っている。
”そういう感覚があるのだと感じます。

年齢を重ねるにつれて、「自分が、自分が」となってくるのだと思います。

“ともに”という感覚がある子どもたちのほうが、
とてもまぶしくて、いきいきしていて。

子どもから、いろんなことを学びます。

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プランターを持ち上げて、だんごむしや何やら虫を探したり。
地面にでーんと座って、泥だんごを作ったり。
育てているなすびの成長を楽しみにしたり。
先生お手製のドレスをひらひらさせたり。
ままごとごっこのエプロンを身につけて、小さい子の面倒をみたり。
「お片付けしてくださ~い」という先生の声を、聞こえないふりしたり。
誰かがほめられていたことを自分も真似したり。
友だちと思いっきり口ゲンカして、次の瞬間には仲直りしていたり。

そんな娘の日常。

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最近気づけば、見たことのない靴下を、
日替わりペースではいている。
保育所へ行く時は、自分の靴下を何足か詰め込んで。

「●●ちゃんが、ガイコツの靴下はきたいってゆうてんねん」。

保育所の女子たちで、おしゃれをシェアしているらしい。

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娘が文字の練習中と思ったら、絵を描いていたり、
でも、やっぱり文字を書いていたり。

文字を書けるような、書けないような、
この時期に書く“もじ”が好きです。

記号のような、絵のような、なんともいえない、おもしろみがあって。

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「おかあさん、きょう、あめふるでー」と娘に言われて、
天気予報を見たら、一時雨の予報。
「おそら、みてみ。ひかげがな~」といろいろ説明してくれました。
自然とつながる、子ども。フシギで、うらやましい。

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娘による紙芝居。しゃしゃしゃと、絵を描いて、
過去に描いた絵と組み合わせて、即興で物語も。

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「水の声がするやろ」おふろで、娘が、
わたしの耳元で水をぱしゃぱしゃ。
ほんまに、声がするね、と。

一つひとつから、物語は広がるのです。

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鼻にビーズ事件が勃発した昨晩。
「鼻にお星様のビーズを入れた」と話す娘。
病院で見てもらったところ、見当たらず…
ひとまず、安心(?)。

娘いわく「鼻水を、お星様にしようと思って」「かわいいと思って」とのこと。

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カメラに夢中。
おでかけ先ではもちろん、
家でも、カメラでパシャパシャと。
あとでカメラのデータを見るのがおもしろい。
自分のドアップコレクションを撮ってました。

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写真データの整理。
合間、合間に、娘が撮影した写真が!! 
荒れる部屋、だらしない私の姿…嗚呼、恥ずかしや。
写真は、娘っ子のくちびる、ドアップシリーズのひとつ。

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娘の後姿。ぷりぷり、きゅっきゅっと
歩く姿がかわいらしくて、思わずパシャリ。

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「おかあさん、おつきさんが、おいかけてくるよ」と娘。
「どこ?」というと、
「おうちでかくれてるねん。あ、いま、みて。あ、またかくれてん。
はよ、みないとあかんやん」。

スーパーから自宅まで、月と追いかけっこした今晩。

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ビッグ・アイの愛カフェに親子で参加した際、マッサージを学ぶ。
マッサージは心地よいもの、人が喜んでくれるという経験をした娘。

それ以来、「マッサージしたるわな」と足をマッサージしてくれる。
「ありがとう」と言うと、とびっきりの笑顔に。

「おかあさんに、喜んでほしい」その思いからの、マッサージ。
マッサージをすることによって、
自分もマッサージしてほしいとか、ほめてほしいとか、
そんな気持ちはなくて。

ただただ、喜んでもらえる、役に立てているということが、
純粋に嬉しいのだと。

そういうのって、素晴らしいなあと思うのです。

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「おかあさん、かみのけ、おにみたい」。
風で乱れた私の髪を、娘が整えてくれました。

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「前髪、伸びたね」と、いつも通りワカメちゃんカットをしたら…
「へんやん!!へんやん!!こんなかみのけ、いややー」と大激怒だったさっき。

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「あのタイルにさわったるで!!」とジャンプする5歳児。
「無理だよ~」と思うけれども、
5歳児とっては「可能、トライする価値あり」。

キラキラした自信がある、とりあえずトライしてみる…
子どもは世界すらも変えるチカラを持っているような気がして。

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「おかあさん、にじやで!!」帰り道、虹を見ました。
「ちかよったら、にじがみえなくなっちゃうやんかー」と言いながら、
虹のほうへ向かって、帰りました。

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連日、ジャイアン(ドラえもんの)ばりに、
ダンスステージを繰り広げる娘。
一応、ステージ衣装らしいです・・・

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もこもこ、ぬくぬく、もうふ。
娘のぬくもりいっぱいの、もうふはここちよい。
ふとんをでたくなーいと思っちゃう、秋冬のあさ。

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誰かと一緒だからこそ、見えてくる風景。
ひとりだったら、思いもつかないこと、気づけないことはたくさんあって。

ひとりだからこそ、気づけることもたくさんあるけれど。

そんな、たくさんの風景を抱いた“ひとり”と“ひとり”が出会うから、
世界はイロどり豊かに。
ぱっと輝き出したり、深みを帯びたりするんだろうなあと。

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「そうだ!!いいこと、思いついた。
このキャンディ、おいしいから。
ケーキの上にのせたら、ええんちゃうん」と、
キラキラまぶしい瞳で見つめてくる5歳児は、まるで魔法使いのようです。

そんな娘から、ラブレターをもらいました。

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思いを馳せれば、子どものまわりには、
あたたかく見守ってくださる方々がいるのです。

知っている人はもちろん、知らない人も含めて。
電車のなかでは、隣に座っていたおばちゃんが、
娘のポーチがフードに絡まっているのを見つけて、
笑顔で直してくださいました。

それも、ご縁、かかわり、つながり。

いとおしいなあと、思います。

しあわせな気持ち・・・娘から、いつもプレゼントしてもらっています。

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娘の寝顔を見るのがしあわせ。
そんな娘のしあわせを願う。

それは同時に、みんなのしあわせも願っているということ。
みんなのしあわせは、つながっているのだと思う。

2012年12月7日金曜日

思い出が、次から次へと


小学生の頃。
父と母からお誕生日にもらったオルゴール。
ひさびさに見つけました。

そのすぐそばには、高校生の頃に書いた詩。
なつかしい、ものが、いろイロと。
そういうタイミングなのかもしれません。今。




パンクした自転車


パンクした自転車引いて繁華街を歩いた
ノースリーブの女性がくすくす笑い
学校帰りの女子高生がひそひそ耳打ち
茶色の背広を着たサラリーマンの迷惑気な表情
自販機前のタムロ少年の罵り言葉
私は顔を伏せた

パンクした自転車が生み出す音楽
パンクした自転車の格好悪さ
私は繁華街の途中で立ち止まった
自転車屋でも直せない自転車
こんなでかいもん抱えてどこへ行けばいい?
視力低下進行中の私の周囲はお化けばっか
付けてたコンタクトもどっかに落とした
いや、捨てた

前に進むことも
後ろに下がることも出来ぬまま
私の頭上に雨が降る

パンクした自転車置き去りにした
閉店間際の家具屋の前で
ぽつんと佇む自転車ひとつ
私は繁華街を駆け抜けた
「新しいのを買えばいい」
と自分を慰めるけど
生まれた時から乗ってた自転車
これから先も乗る運命

深夜パンクした自転車迎えに行った
パンクした自転車の生む音楽も
パンクした自転車の格好悪さも
相変わらずだけど
パンクした自転車で坂道上った

パンクした自転車でも
坂道上れるんだあ



自分のことが大嫌いだった高校生の頃。
でも、「そんな自分もいいかなあ」と思えるようになった時に書きました。

2012年12月6日木曜日

10代の頃


ちいさな引き出しのなかにあった、
なつかしい、フロッピーディスク。


開いてみたら、高校~大学時代に書いた創作物が。
いくつかピックアップしてみました。



鳥になったお母さん

私のお母さんは鳥になりました。
私みたいな悪い子はいらないと言って、
私を置いてどこかに飛んでいってしまいました。

私が良い子だったら、
お母さんは鳥になることはなかったでしょう。

私が悪いんです。

お父さんもあばあちゃんもみんな言います。
「おまえは悪い子だ」と。
私もそう思います。

はあ・・・。
私はおうちに帰れません。
お父さんもおばあちゃんも、
私みたいな悪い子いらないと言っていましたから。
とても悲しいです。

だから、私はどこかに行こうと思います。
鳥になったお母さんを見つけようと思います。

チョコを持って、公園に行きました。
お父さんにいじめられていたお母さんは、
よく公園で泣いていました。
「どうして、泣いてるの?」って聞いたら、
「あんたのせいで怒られたんでしょ」って言われました。
私は「ごめんなさい」としか言えなくて、
そんな私がお母さんは嫌だったみたいです。

次に橋の上に行きました。
「死にたい」とつぶやいていたお母さんは、
よく川を見つめていました。
「どうしたの?」って聞いたら、
「死んだら、どうなるのだろう?」と悲しそうに言いました。
私はお母さんを見つめることしかできなくて、
そんな私はとても悪い子でした。

お母さんはいつも優しかったのに、
私はいつもお母さんを困らせていました。

お母さんに泣きながら、
「どうして、言うことを聞いてくれないの?」って
言われたとき、悲しかったです。

だから、私は良い子になりたくて、
お母さんを鳥にしてあげました。

お母さんはきっとどこか遠くに行ってしまったと思います。

お母さんは橋から空に飛び上がったとき、
私の手首を強く握って、こう言ったのです。

「なんてことするの!?助けて・・・」。

いいことをしたのに、
どうしてお母さんは喜んでくれなかったのでしょう。

お母さんに握られた手首が真赤になっています。



道化師


わたくしは
下っ端の道化師でございます
修業期間十年と
まだまだでございますが
多くの技を習得して参りました
プラスチック性の笑顔の仮面
お客様を退屈させないための話術
私という人形を操る細い糸
感情に左右されない腹話術
初めて道化を披露したのは
家族の前でしたでしょうか?
あの時はまだ未熟でございました
お客様を楽しませるのが
わたくしのお仕事でしたのに
皆様を不機嫌にさせるばかりでした
わたくしながら
お恥ずかしい過去でございます
けれど
その日から
わたくしは道化師の道を志しました
いつの日にか立派な道化師になって
家族の笑顔を見たいと思いました

今は
下っ端と言えど
其処ら辺の道化師には負けないつもりです
自分で言うのもなんですが
誰もわたくしの道化に気づいていないのです
いえ
一度だけばれたことがございます
わたくしがいつものように笑っていましたら
とある年老いた男が申したのでございます
「あんた、いつも淋しそうやな」
はっとしました
プラスチック性の仮面に
ヒビが入ったのかと思いました
わたくしは
その男に最高の笑顔を見せてやりました
でも
男はただじっとわたくしの顔をみるのです
わたくしはその場から逃げ出しました
不覚でした
まさか道化がばれるなど
まさか、そんな・・・

わたくしの尊敬している
ある道化師も
一人の男に見破られたそうでございます
その道化師は
その男にだけ心を開いたそうですが
わたくしは見破られたからといって
心など開きません
わたくしは
自分の道化に自信を持っていますもの
あの男にも見破られないほどの
道化を披露してやります

でも
この頃
プラスチック性の笑顔の仮面の
調子が悪いのでございます
腹話術もイマイチでございますし
話のネタも少なくなり
だんだんと口数が少なくなって参りました
ああ
どうしたことでございましょう
職業病でございましょうか
ひどく疲れるのです
夜も眠れず
頭を金鎚で殴られているように
激しい頭痛が襲うのです

ああ
わたくしは
いつまで道化師でいられるでしょう?
仮面を外したときの
お客様の表情が恐いです



涙は零れない


「なんで泣いてなかったん?」
と訊かれたあの日
母の葬式後の昼下がり
私は瞳を伏せた

泣きたかったのに
泣けなくて
冷静な自分がそこにいた
泣き崩れる父を見下していた

「冷たい子ね」
とみんなは言うけれど
私のこころ
何も感じない
ただ足の痺れ
気になるだけ

同情の声
愛想笑いする
親戚の目
視線を反らす

空に立ち上る煙
風に流され何処に逝くのか

その夜、空で眠った私
背中を風が吹き抜けていく
「あっ・・・」
瞳から涙が零れた


2012年12月2日日曜日

一人ひとりの顔が見えてくると、世界は・・・

毎朝の通勤ラッシュ。
満員電車を降りて、それぞれの場所へ向かう人々。
その一人ひとりの物語に思いを馳せると、
果てしなく感じられることがあって。
わたしは想像する一歩手前でストップしていたりするのですが。

写真家・鬼海弘雄さんは、
40年以上に渡って、
浅草寺境内で気になる人を見つけては、
その人の人生に思いを馳せて。

撮影をきっかけに、話もする、
人生に触れることだってあるからこそ、つけられるタイトル。

日にちを間違え、花火大会だと思ってきてしまったというひと。
自動販売機で買った酒を飲む、50円玉をネックレスにしたアパッチと名乗る男。
私の東北訛りに、死んだ友人を思い出し、泣き出したひと。
四十八回、救急車で運ばれたと語る男。
二十八年間、人形を育てているというひと。
人形と一緒に二十八年間暮らしているその夫。
美容師だったという早口の男。
仕事が終わると、いつも着物だというトラックの運転手。




「え!!この人、昔は美容師だったんだ。
どんな人生を経て、今があるんだろう」とか。
「28年間も、お人形を子どもとして育てていて・・・
どんな思いを抱えているんだろう」とか。

その写真にうつる人たちが、
どんな人で、どんな人生を歩んでいて、今どうしているのか、
とても興味が湧いてきます。
「こうかもしれない」「ああかもしれない」と、
ひっそりと、妄想してしまうのです。

まちなかで見かけたら、
まちなみに埋没してしまっている、人たちなのかもしれないけれど。
鬼海さんの写真に写る、その人たちはとても際立っていて。
誰もが、自分という物語の
主人公を演じているんだということを思い出させてくれます。

一人ひとりには、物語がある。
どんな人で、どんな状況で生きていて、
今何を感じて、何を思っているのか。

そうやって思いを馳せられるようになっていくと、
当たり前だけど、いろんな人たちがいることに気づきます。
そうやって、いろんな人たちの存在が、
自分の暴走のブレーキになってくれるような気がします。
自分はこうだ、でも、あの人だったらどうか、この人だったらと。
いろんな人たちの存在に気づいた分だけ、
優しくも、強くもなれる気がします。

鬼海さんのメッセージが、またいいのです。

“人が他人にもっと思いを馳せていたり、興味を持てば、功利的になる一方の社会の傾きが弛み、少しだけ生きやすくなるのではないかと”(※功利的=物事の価値を、そこから生み出される効果や利益を第一として判断するさま)。

アナトリアの風景を、願いも込めて、
日本の“懐かしい未来”として紹介したり。



展示を見た後日、アーティストトークへ。
その時、感じたことは・・・



撮影時間はたった5分。
その前後の積み重ねは無限大。

伊丹美術館でアーティストトーク。

40年以上に渡って、浅草の人々を撮り続けている
写真家・鬼海弘雄さんが、
展示作品を振り返りながら、
撮影背景や思いなどについて話してくださいました。

撮影してから、何年経っても、
ずっと関係が続いている人もいて。

手紙を送ったり。電話で話したり。
いつもの撮影場所で出会っては会話を交わしたり。
同じ場所で撮影し続けているから、数年後、数十年後に再会したり。
雑誌掲載などを通じて、その親族から連絡が来たり。

そこにいることで、そこにいる人たちと出会う。
出会った人たち同士が向き合うことで、
気づく、ほっておけなくなる。その関係性。
一過性ではなく、つながり続けること。
だからこその“何か”があると感じました。

いや、もしかしたら・・・

昔、喫茶店でアルバイトしていた時、
毎朝来ていた人が、しばらく来なくなって。
ちょうど、その人が来なくなった時、
電車で大規模な事故があって。
もしかしたら、それに巻き込まれたのかもしれない・・・と
心配したことがありました(数週間後、いらっしゃってくれたのですが)。

そういう感じなのかもしれないと。
顔を知っているだけだけど、
毎朝注文するものを知っているだけなんだけど・・・
一度出会ったら、気になって。
そういう、ささやかでも、関係性が生じたら、気になる人になるんです。

なんか、うまく言えないんですけど。
人と人が出会うことって、そういうことなのかなあと。



鬼海弘雄写真展『PERSONA 東京ポートレイト、インディア、アナトリア』
伊丹美術館で12月24日まで。
http://artmuseum-itami.jp/